2010年 03月 19日
QueryCruise vol.2 第3回 |
2月21日、22日のQueryCruise vol.2
都市景観のヘテロトポグラフィ
このテーマは立命館大学文学部教員 加藤政洋先生にレクチャーしていただいた。
ヘテロトポグラフフィとは、ヘテロトポロジーとトポグラフィによる言葉であり、、場所と場所の、近接していながらも、性質が全く異なるものを記述していくことなのだそう。
21日「せんなか半径500メートル―西陣のヘソを歩く―」
この日は街歩きのフィールドワーク。参加者は平野神社に集合し、そこから上七軒、五番町、西陣京極などを散策し、自分の目にとまったもの(主に、京都らしいもの、またはその逆など)を写真に収めていく。
次日のインドアワークで先生が仰っていた事だが、今回の街歩きは京都で代表される事のないような景観を観て回ったという事だった。というのも、京都市は現在「新景観政策」というものを実施している。それは、京都の文化を保全するということになるのだが、その保全されるべき<代表>(representation)が「優れた景観」という事になる。同時にそれは「京都らしさ」の<表象>(representation)であり、それ故、代表されない、捨象される景観が生まれてしまう。今回はそういったモノを観てまわったのだ。
この日の道順は以下の図の通りである。(この図はRADのレポートからお借りしました)

今回は、街歩きで撮った写真を2日目の22日に発表したのだが、その発表にて、自分がどういった写真を扱ったのか紹介したいと思う。

1枚目は上七軒から路地へ。
この場所を選んだ理由は、この光景は自分にとってのまさしく「京都」だった。というのも僕はもともと京都の出身ではなくて、京都に来る前に持っていた京都のイメージとこの写真の光景はマッチングする。道路とも路地とも形容し難い微妙な幅の道。2階部分に掛けられている簾。高さのそろった軒。それらをもって僕はこの写真を「京都らしさ」を感じた景観ということで紹介した。
また面白い事にこの通りをさらに行くと、住宅メーカーが新しい住宅を建設中だった。同じ通りでこうも景観ががらりと変わるのかと感じてしまった。戸建住宅を町屋界隈に無理矢理挿入するような行為、敷地やその周辺のコンテクストを無視する事のなんと暴力的なことか。

2枚目は西陣京極。
この壁を写した写真は、自分以外に2人の方が挙げておられた。勿論、採り上げた理由はそれぞれだったが。この写真に、自分が最初に感じたものは「皮肉的な京都らしさ」だった。といのも、上記で述べたように、僕は京都の出身ではない。この場所は昔は平屋の長屋街だったそうなのだが、住宅開発のため取り壊されたのだそう。京都に来たばかりの頃、これと同じようなモノを僕はよく目にした。この景観は、おそらく望むべくして生まれたモノではない。本来であればこれは「京都らしくない」景観として挙げられるモノなのかもしれない。しかし僕はここに逆説的な「京都らしさ」を感じる。それを皮肉的と感じたのだ。
また町家の生命力の強さのようなモノも感じた。取り壊されてもなお、我々にその存在を示すのだ。

3枚目は西陣京極の路地裏。
この写真は発表したわけではないのだが、感じるものがあったので、この場でそれを述べてみたいと思う。
最初に述べたように「新景観政策」というのは、京都の代表される景観を保全することを目的としている。しかしその保全する景観(町家など)の裏側には、写真のように電線が多く掛けられる景色も共存しているのだ。ここに僕は近未来的な、ある種のテクノスケープのようなものを観てしまう。京都市が町家を保全するという時(この写真の場所に限らず)、過去を保全すると共に、この写真のような近未来的な景観も同時に保全することになる。とすると、表象される景観は過去、捨象される景観は近未来というような二項対立的な構図が出来るのではないだろうか。市が景観を保全する時、こういった計らずとも保全されてしまう景観に対してはどのように考えているのだろうか。
恣意的ではあるけど、僕はこの写真のような景観は好きである。保全を謳う時このような景観を含めての保全であることを願ってやまないのだ。表だけ保全すればいいという風にはならないで欲しい。
以上が自分が取り扱った(1枚を除いて)写真である。
私たちは、普段この表象、代表される景観のみを保全の対象として議論する。しかしその裏には、多くの負けてしまった景観が存在し、捨象されつつも共存したりしている。それらは視点を変えないと見えにくいものであるが、確実に存在しているのだ。全てを同じレベルで議論しなくはいけないのではないだろうか。表象、代表される景観のみの議論では、アウトプットされる景観は薄っぺらなものになってしまうのではないだろうか、と僕は今回のQueryCruise vol.2で感じたのである。ヴァルター・ベンヤミンの言う、勝利した歴史と敗北した歴史、その両方に目を向けることが大事なのだろう。
以上を持って、全3回のQueryCruise vol.2は終了した。
今回、レクチャーしてくださった、大庭哲冶先生、佐野亘先生、加藤政洋先生のお三方には心からお礼を言いたい。またQueryCruise vol.2をオーガナイズドしてくださった、RADのお二人にも心からの感謝を述べたい。本当にありがとうございます。
以下にRADがHPのURLを掲載します。
http://radlab.info/
A.Matsuoka
都市景観のヘテロトポグラフィ
このテーマは立命館大学文学部教員 加藤政洋先生にレクチャーしていただいた。
ヘテロトポグラフフィとは、ヘテロトポロジーとトポグラフィによる言葉であり、、場所と場所の、近接していながらも、性質が全く異なるものを記述していくことなのだそう。
21日「せんなか半径500メートル―西陣のヘソを歩く―」
この日は街歩きのフィールドワーク。参加者は平野神社に集合し、そこから上七軒、五番町、西陣京極などを散策し、自分の目にとまったもの(主に、京都らしいもの、またはその逆など)を写真に収めていく。
次日のインドアワークで先生が仰っていた事だが、今回の街歩きは京都で代表される事のないような景観を観て回ったという事だった。というのも、京都市は現在「新景観政策」というものを実施している。それは、京都の文化を保全するということになるのだが、その保全されるべき<代表>(representation)が「優れた景観」という事になる。同時にそれは「京都らしさ」の<表象>(representation)であり、それ故、代表されない、捨象される景観が生まれてしまう。今回はそういったモノを観てまわったのだ。
この日の道順は以下の図の通りである。(この図はRADのレポートからお借りしました)

今回は、街歩きで撮った写真を2日目の22日に発表したのだが、その発表にて、自分がどういった写真を扱ったのか紹介したいと思う。

1枚目は上七軒から路地へ。
この場所を選んだ理由は、この光景は自分にとってのまさしく「京都」だった。というのも僕はもともと京都の出身ではなくて、京都に来る前に持っていた京都のイメージとこの写真の光景はマッチングする。道路とも路地とも形容し難い微妙な幅の道。2階部分に掛けられている簾。高さのそろった軒。それらをもって僕はこの写真を「京都らしさ」を感じた景観ということで紹介した。
また面白い事にこの通りをさらに行くと、住宅メーカーが新しい住宅を建設中だった。同じ通りでこうも景観ががらりと変わるのかと感じてしまった。戸建住宅を町屋界隈に無理矢理挿入するような行為、敷地やその周辺のコンテクストを無視する事のなんと暴力的なことか。

2枚目は西陣京極。
この壁を写した写真は、自分以外に2人の方が挙げておられた。勿論、採り上げた理由はそれぞれだったが。この写真に、自分が最初に感じたものは「皮肉的な京都らしさ」だった。といのも、上記で述べたように、僕は京都の出身ではない。この場所は昔は平屋の長屋街だったそうなのだが、住宅開発のため取り壊されたのだそう。京都に来たばかりの頃、これと同じようなモノを僕はよく目にした。この景観は、おそらく望むべくして生まれたモノではない。本来であればこれは「京都らしくない」景観として挙げられるモノなのかもしれない。しかし僕はここに逆説的な「京都らしさ」を感じる。それを皮肉的と感じたのだ。
また町家の生命力の強さのようなモノも感じた。取り壊されてもなお、我々にその存在を示すのだ。

3枚目は西陣京極の路地裏。
この写真は発表したわけではないのだが、感じるものがあったので、この場でそれを述べてみたいと思う。
最初に述べたように「新景観政策」というのは、京都の代表される景観を保全することを目的としている。しかしその保全する景観(町家など)の裏側には、写真のように電線が多く掛けられる景色も共存しているのだ。ここに僕は近未来的な、ある種のテクノスケープのようなものを観てしまう。京都市が町家を保全するという時(この写真の場所に限らず)、過去を保全すると共に、この写真のような近未来的な景観も同時に保全することになる。とすると、表象される景観は過去、捨象される景観は近未来というような二項対立的な構図が出来るのではないだろうか。市が景観を保全する時、こういった計らずとも保全されてしまう景観に対してはどのように考えているのだろうか。
恣意的ではあるけど、僕はこの写真のような景観は好きである。保全を謳う時このような景観を含めての保全であることを願ってやまないのだ。表だけ保全すればいいという風にはならないで欲しい。
以上が自分が取り扱った(1枚を除いて)写真である。
私たちは、普段この表象、代表される景観のみを保全の対象として議論する。しかしその裏には、多くの負けてしまった景観が存在し、捨象されつつも共存したりしている。それらは視点を変えないと見えにくいものであるが、確実に存在しているのだ。全てを同じレベルで議論しなくはいけないのではないだろうか。表象、代表される景観のみの議論では、アウトプットされる景観は薄っぺらなものになってしまうのではないだろうか、と僕は今回のQueryCruise vol.2で感じたのである。ヴァルター・ベンヤミンの言う、勝利した歴史と敗北した歴史、その両方に目を向けることが大事なのだろう。
以上を持って、全3回のQueryCruise vol.2は終了した。
今回、レクチャーしてくださった、大庭哲冶先生、佐野亘先生、加藤政洋先生のお三方には心からお礼を言いたい。またQueryCruise vol.2をオーガナイズドしてくださった、RADのお二人にも心からの感謝を述べたい。本当にありがとうございます。
以下にRADがHPのURLを掲載します。
http://radlab.info/
A.Matsuoka
by m-atsushi0715 | 2010-03-19 23:07 | 建築

